朝日新聞に依然掲載されていた記事です。歴史の興味深いエピソードとして紹介します(クリルタイ事務局)
朝日新聞 2010年10月14日記事より
満州建国大生の戦後(3)
モンゴル人の国父との夢
「『日本が負けた』と聞き、目の前が真っ白になりました。日中戦争の終結は、私にとっても『敗戦』でした」嘗て、満州建国大の学生だったウルジン・ダシニャムさん(88)はモンゴルの首都ウランバートルの繁華街で、1945年夏のことを日本語で振り返った。「満州国や建国大は、当時の父や私には何事にも代えがたい存在でした。夢であり、支えでもありました」
父親は「満州国」軍の著名な将軍ウルジン・ガルマーエフ氏。当時を描いた安彦良和氏の人気漫画「虹色のトロツキー」に登場する「ウルジン将軍」のモデルでもある。モンゴル系ブリヤート族出身で、ロシア・シベリア地方のチタ市で小学校教師から帝政ロシアの職業軍人となったが、17年のロシア革命で国を追われる。逃走中の草原でダシニャムさんが生まれた。
20世紀初頭、極東の国境腺は激しく動いた。24年、ソ連の衛星国としてモンゴル人民共和国が成立。32年には中国北東部に日本がつくった国家「満州国」が出現する。「選択肢は限られていた。ソ連か、日本か。軍事力の弱いモンゴル民族はどちらかにつくしかなかった。一家は「日本」を選んだ。父はモンゴル人部隊を率いて満州国軍の中将になり、ダシニャムさんは満州国政府の官僚になろうと建国大に通学した。「満州国が掲げた『五族協和』を心から信じたわけではありません。モンゴル人がモンゴル人らしく暮らせる国を作りたいとの一心でした」勤労動員で駆り出された飛行機工場で、終戦の報を聞いた。建国大のあった新京(長春)に戻ると、満州国政府のモンゴル局長と父が戦後処理の協議をしていた。「誰かが責任を取らなければならない」。父はそう言い残し、息子に声もかけず、局長宅を出て行った。「それが、父の最期の姿でした」。
父の行方はずっと分らないままだった。新京でソ連軍に投降し、軍事裁判の末、47年春に銃殺されていたことが判明したのは、モンゴルが民主化され、「モンゴル国」と改称した直後の92年。ロシア連邦検察庁から家族の下に届いた1枚の証書に<新憲法とロシア連邦の法律により、政治的鎮圧によって処刑されたガルマーエフ氏の名誉を回復する>とあったからだ。
戦後、ダシニャムさんは中国政府に家や財産を没収され、就職も制限され、数人のモンゴル人仲間と野原でタルバガン(リス科の小動物)を取って暮らした。妻の親類からの出国要請で、54年中国からモンゴルへ、その後ウランバートルで、図書館や造形美術館の解説員として働いた。「モンゴル民族は今も、中国やロシアなど、バラバラになって暮らしています。国家や国土、民族をずっと考えさせられ続け、生きている限り逃れられなかった。父も私も、常に強く生きなければならなかったのは、不幸なことだったのかもしれません」