
東洋の一員としての日本人~5.11南モンゴルを応援する日*⋆⋅⋅⋅⊱∘──────∘⊰⋅⋅⋅⋆‧*本日5月11日は、南モンゴルの人々にとって忘れがたい日である。ここで詳細は語らないが、南モンゴルの人々の尊厳、そしてアイデンティティが踏みにじられる状況を生み出した日でもある。現在、日本では、何かにつけ人権という言葉が世にあふれているが、はたして本当に人権意識が高まっているといえるだろうか。この人権という言葉には、他の意味が込められているように思える。とりわけ日本での人権は、それすなわち、イデオロギーの対立材料とされている。しかし人権はあくまでもすべての人間にかかわる大事なもので、陳腐にして浅はかなイデオロギーで対立、議論するのは無意味であり、無責任である。この度、日本国内5か所同時に中国に対して抗議文を投函することとなり、私は、福岡をお預かりすることになった。本日午前11時に在福岡中国総領事館に抗議文を読み上げ投函してきた。人数こそわずかではあったが、今日集った人々は、それぞれ立場も違い、意識も違うが、その壁を乗り越え本日の行動に至っていることをご報告したい。参加者みなが思っていることは、現状の中国共産党が南モンゴルという地においておこなっていることに対する明確な反対意思表示である。現状の南モンゴルの人口は、もはや南モンゴル人よりも漢人のほうがはるかに多くなり、土地のみではなく、生活習慣や長い歴史に基づく文化というものを侵食し、浄化しようとしている。いわゆるジェノサイドである。ただし、ウイグル(東トルキスタン)にみられるような強制収容所の存在や、罪をでっちあげ刑務所に投獄し、さもすれば殺戮するというような極端な現象は少なくなっているといえるだろう。だからと言って問題がないとはいえない。今南モンゴルの人々が直面している問題は、母語(モンゴル語)を奪われつつあるという状況に瀕している。言語の違いというものは、アイデンティティの違いというものにもなり、それはつまり文化の違いとなる。仮に、今、中国共産党が目論んでいる日本を省のひとつとするような暴挙が現実となったとすれば、おそらくわれわれ日本人は、日本語という言語を奪われるに違いない。このことを真剣に想像していただきたい。子々孫々受け継いできた日本語がなくなり、民族というDNA上のつながりがあったとしても北京語を話す日本人になるというようなものである。それを真綿で首を締めるかのように中国共産党が、この国で実行するということを想像してもらいたい。このことに無関心、無意識でいるということを何はばからないとすれば、もはや日本は日本人としてのアイデンティティを失いかけているといえる。なによりも日本人という民族的集団意識ではなく、ひとりひとりの日本人として考えてみてほしい。もしも、言語を失えば、それは今持っている自分というものを、完全に変えてしまうということであることに気づいてほしい。それは、口先だけの尊厳ではなく、真の尊厳を踏みにじられるも同様である。今日この日におこなっている抗議は、南モンゴル人民のためでなくてはならないが、それは、同時に未来の日本人のためになるのだと理解いただきたい。つまり、現在、世界中に存在する母国と母国語を失った南モンゴルの人々からの日本人へのありがたくも大切な警鐘であることを、われわれは認識しなくてはならない。このような考えに基づけば、われわれ日本人が先進国の人間として優越的立場という点において悲劇の南モンゴルの人々を救済するという活動ではなく、南モンゴルの人々と共に手を携え、アジアの同胞との連帯という意味での今日の活動であったと理解していただきたいと切に願う。故に、陳腐な左右対立や、とるに足らぬイデオロギー論争など捨て去り、ただただ東洋人として東洋の同胞と共にあることを目指すという、単純かつ理性的な運動になるべきだと私は信じる。今一度日本人は、東洋人の一人であり、そこに文化の基盤やアイデンティの基礎、そして、アジア人としての尊厳があることを忘れてはならない。南モンゴル人、万歳。日本人、万歳。 (文:Kawai)
