論考
「主権を盾に独裁を免責する国際秩序の限界
――ベネズエラ、中国、南モンゴルに共通する矛盾」
を公開しました。
ベネズエラをめぐる議論を起点に、
国際秩序が「主権」の名の下で何を守り、何を見過ごしてきたのかを検証し、
中国および南モンゴルの現状を含め、構造的な問題として整理しています。
国家の主権と人間の尊厳が衝突するとき、
国際社会はいかなる原理と責任を引き受けるべきなのか。
ぜひご一読ください。
主権を盾に独裁を免責する国際秩序の限界
――ベネズエラ、中国、南モンゴルに共通する矛盾
ベネズエラをめぐる一連の出来事は、国際社会に根源的な問いを突きつけている。
国際法を軽視しているのではないか。
主権国家への武力的圧力ではないのか。
力が支配する時代への逆行ではないのか。
こうした懸念には、確かに理がある。
民間人被害の可能性、大国の行動が前例化する危険、国際秩序そのものが動揺する不安。
いずれも看過できる問題ではない。
しかし同時に、もう一つの問いを避け続けることもできない。
それは、「これまでの国際秩序は、誰を守り、誰を見捨ててきたのか」という問いである。
国際秩序や国際法は、不変の絶対原理ではない。
それらは、戦争や大量虐殺、全体主義の惨禍への反省を経て、
秩序と正義の両立を模索しながら形成されてきた枠組みである。
本来、国家の主権が尊重されるのは、
それが国民の生命と自由を守る機能を果たしている限りにおいてであった。
ところが現実には、
選挙の否定、言論の封殺、司法の形骸化、恣意的拘束といった事態が長期にわたり続いても、
国際社会はしばしば「内政問題」や「主権」を理由に、実質的な対応を避けてきた。
この消極姿勢が、結果として独裁体制を温存させてきた側面は否定できない。
さらに深刻なのは、
独裁国家が国際法や国際秩序を、一貫した原則ではなく、
都合の良い場面でのみ利用してきた現実である。
自国の行為が問われる際には主権を強調し、
不利な国際裁定や人権批判には従わない。
この選択的な秩序観が、国際社会の信頼そのものを損なってきた。
ベネズエラをめぐる議論は、決して中南米だけの問題ではない。
むしろそこには、現代の国際秩序が抱える共通の構造的矛盾が、凝縮された形で現れている。
中南米では長年、
「反米」「主権」「民族的自立」といった言葉が、
選挙の形骸化や権力の固定化を覆い隠す装置として用いられてきた。
国際社会もまた、冷戦後の秩序維持を優先するあまり、
こうした体制の内実に踏み込むことを避けてきた。
この構図は、中国において、さらに露骨な形で現れている。
中国政府は一貫して「主権」や「内政不干渉」を強調し、
国際的な人権批判や裁定に対しては、受け入れるか否かを恣意的に選別してきた。
その結果、国家の主権は、国民の権利を守る原理ではなく、
権力を守るための防壁として機能するようになった。
その象徴的な帰結の一つが、南モンゴルの現状である。
母語教育は解体され、
土地は国家政策の名の下に奪われ、
抗議や異議申し立ては犯罪として処理されてきた。
にもかかわらず、国際社会は長らく決定的な行動を取らなかった。
こうした現実を直視するなら、
今回のベネズエラをめぐる議論の核心は、
単に「武力が用いられたか否か」という点にとどまらない。
非軍事的な手段――制裁、仲介、国際監視、選挙支援――は、
どの程度、どれほどの期間、実効性を持って機能していたのか。
あるいは、最初から制度的に封じられてはいなかったのか。
そしてその間、国際社会は現状を追認する以外に、何をしてきたのか。
対話と平和は重要である。
だがそれは、対話が成立する条件が存在する場合にのみ意味を持つ。
選挙が否定され、司法が支配され、市民の声が恐怖によって封じられている状況で、
「対話を尽くすべきだった」という言葉は、
現実には抑圧の固定化を助長しかねない。
今回の出来事に対する評価は、単純な賛否で割り切れるものではない。
理想的でもなく、無傷でもない。
しかし少なくとも、独裁体制の下で生きてきた当事者の声が、
国際社会の議論の俎上に乗ったという事実は重い。
国際秩序が、国家の体面や現状維持のためだけに存在するのであれば、
それは秩序ではなく、責任の放棄に近い。
主権とは、本来、国家が国民を守る責務と不可分である。
国家の主権と人間の尊厳が衝突するとき、
どちらを最終的に守るのか。
その選択を曖昧にし続けてきたことこそが、
今日の国際秩序の矛盾を拡大させている。
ベネズエラをめぐる賛否両論は、
力の是非ではなく、
主権を誰のための原理として用いるのかという覚悟を、
国際社会に突きつけている。
オルホノド・ダイチン
南モンゴルクリルタイ(世界南モンゴル会議)共同代表