本論考は、「主権」と「国際秩序」が本来誰のために存在するのかを、民意という視点から問い直すものである。
武力侵略と、自由や尊厳を求める国民の内発的な声が、同じ「現状変更」として混同される今日の国際議論に対し、明確な一線を引くことを目的とする。
ベネズエラをめぐる国際的論争、命を賭して自由を求め続けるイラン国民の声、そして中国の支配下で言語・文化・民意を奪われてきた南モンゴルの現実を通じて、本稿は、
主権が国家や権力者の免罪符として用いられるとき、国際秩序は人間のための枠組みでなくなる
という根本的問題を提示する。
自由と民主主義、法の支配を掲げる国々が、抑圧される人々の側に立つことこそが、真の意味で国際秩序を守る行為である――。
本論考は、その規範的責任を国際社会に問いかける。
主権は誰のためにあるのか
――民意を基軸とする国際秩序の規範的再考
戦後国際秩序は、しばしば「守るべき不変の枠組み」として語られる。しかしこの理解は、歴史的にも規範的にも正確とは言えない。第二次世界大戦後に形成された国際秩序は、完成された体系ではなく、人間社会の変化と政治的要請に応じて、繰り返し修正され、更新されてきた枠組みである。植民地支配からの独立、冷戦の終結、権威主義体制から民主主義体制への移行は、いずれも既存の秩序が人間の尊厳や政治的意思を十分に包摂できなくなった結果として生じた。
したがって、国際秩序が変化すること自体は例外ではない。問題は、その変化がいかなる原理に基づき、何を正当性の根拠として生じているのかである。
この点において、武力侵攻や領土拡張、威圧による支配を進める権威主義国家の行動と、抑圧された社会において人々が自由と尊厳を求めて立ち上がる内発的な民意の表出とは、本質的に異なる。前者は、武力と強制によって一方的に現状を変更しようとする行為であり、国際秩序の正当な「変化」ではない。それは秩序への挑戦であり、破壊である。
しかし今日、こうした本質的に異なる現象が、ともに「現状変更」という言葉で一括して論じられる場面が少なくない。侵略と、民主的社会を求める民意の噴出が同列に扱われるとき、国際秩序論は決定的な混同を犯すことになる。重要なのは、どの国家が関与しているかではない。政治的変化が、その社会に生きる人々の自由意思に基づくものかどうかである。
この基準に照らせば、権威主義体制下で起きている市民蜂起や民主化要求は、国際社会が正面から向き合うべき現象である。それらは外部から操作された混乱ではなく、人々が自らの尊厳と自由を回復するために発する内在的な声である。それにもかかわらず、「内政問題」や「安定」を理由に距離を置き、体制の維持を優先する態度は、価値中立ではない。それは、既存の権力構造を追認するという政治的選択である。
このような沈黙を正当化する際、しばしば持ち出されるのが「主権」という概念である。しかし、主権は本来、国家権力を無制限に正当化するための概念ではない。国民の生命、文化、言語、自由が体系的に侵害されているにもかかわらず、その抑圧を「主権」の名の下に不可侵のものとして扱うならば、主権は国民を守る原理から、権力を守る盾へと変質する。
とりわけ深刻なのは、国際法や国際秩序が、権威主義国家にとって都合のよいときだけ利用される道具として扱われている現実である。自らに不利な場合には、国際裁判の判断や条約上の義務が事実上無視される一方、他国を非難する場面では突如として「法の支配」や「秩序」が強調される。これは国際秩序の擁護ではなく、その選別的利用にすぎない。
ここで問われるのが、自由と民主主義、法の支配を掲げる国家――とりわけG7をはじめとする自由民主主義国家の姿勢である。もしこれらの国々が、現実主義や非干渉を理由に、独裁体制による抑圧を黙認するならば、それは国際秩序を守る行為ではない。むしろ、秩序の道徳的基盤を空洞化させる行為である。
逆に、抑圧された人々の民意に寄り添い、政治的・外交的に支援し、弾圧を正当化しない姿勢を貫くことこそが、国際秩序の本来の目的を守る行為である。それは主権の否定ではない。主権を、本来あるべき姿に立ち返らせる行為である。
主権は国家の所有物ではない。権力者の特権でもない。それは、国民の意思と尊厳を守るために、国家に条件付きで委ねられた権能にすぎない。その信託が体系的に裏切られたとき、主権は法的形式として残ったとしても、規範的正当性を失う。
最終的に問われるべきなのは、主権が存在するかどうかではない。
主権が誰のために行使されているのかである。
国境の不動性や表面的な安定を優先し、人々の声や尊厳を軽視する国際秩序は、もはや人間のための秩序ではない。自由と民主主義を標榜する国家が、抑圧される人々の側に立たないとき、結果として独裁者を支援する構造に加担することになりかねない。
民意を守ることは、国際秩序を壊すことではない。
それは、国際秩序を人間のための枠組みとして守り抜く行為である。
主権は誰のためにあるのか。
この問いから目を逸らさないこと――それこそが、自由と秩序を同時に守ろうとする者に課せられた、最低限の責任なのである。
【補足注記】
南モンゴル――主権が国民を守らなくなったときの現実
本論考で論じてきた「主権の空洞化」と「民意の否定」は、抽象的な理論問題ではない。それは、現在進行形で多くの地域と民族が直面している現実である。その代表的な事例の一つが、いわゆる「内モンゴル自治区」、すなわち南モンゴルである。
南モンゴルは、歴史的・民族的にモンゴル人が暮らしてきた地域であり、20世紀半ば以降、中国共産党政権の支配下に置かれてきた。表面的には「自治区」という行政的枠組みが存在するものの、実態としては、政治的意思決定、資源配分、教育政策、言語政策のいずれにおいても、現地モンゴル人の民意が反映されているとは言い難い状況が続いている。
とりわけ近年、学校教育におけるモンゴル語教育の事実上の廃止、遊牧文化の解体、土地と資源の収奪、抗議活動に対する大規模な弾圧が進められてきた。これらは、治安維持や行政効率の問題ではなく、民族としての存在そのものを弱体化させる政策である。
この過程において、中国政府は一貫して「国家主権」や「内政問題」を理由に、国際的な批判や懸念を退けてきた。しかし、ここで行使されている主権は、住民の生命、文化、言語、尊厳を守るためのものではない。むしろ、それらを制限し、抑圧するための権力装置として機能している。
南モンゴルの事例が示しているのは、主権が法的形式として存在していても、それが国民の意思と尊厳を守らない限り、規範的正当性を失うという事実である。これは特定の国家に固有の問題ではなく、主権概念が権威主義体制の下でどのように歪められ得るかを示す普遍的な警告である。
自由と民主主義、法の支配を掲げる国際社会が、南モンゴルのような事例を「内政問題」として黙殺するならば、それは主権尊重ではなく、抑圧の追認に他ならない。民意が表明される空間そのものが奪われている社会において、「国家の意思」と「国民の意思」を同一視することはできないからである。
南モンゴルの現状は、本論考で提起した問い――
「主権は誰のために行使されているのか」
を、極めて具体的かつ切実な形で突きつけている。
オルホノド・ダイチン(南モンゴルクリルタイ共同代表、「自由モンゴル」(モンゴル語)編集長)