三浦小太郎:司馬遼太郎とモンゴル 

10月9日、奈良県で行われた「南モンゴル問題勉強会」で評論家三浦小太郎 講演資料です(参考までに)。

司馬遼太郎とモンゴル 

司馬遼太郎の、エッセイともルポルタージュとも取れる作品に、平成4年に出版された「草原の記」(新潮文庫)があります。司馬は1973年と90年の二回、当時のモンゴル人民共和国を尋ねていますが、そこで出会ったツェベクマさんというモンゴル人女性が、本書の服主人公となっています。バルダンギーン・ツェベクマさんは、1924年、ロシアのバイカル湖近くで生まれ、内モンゴル自治区(南モンゴル)ハイラルで育ち、当時の満洲国にて少女時代を過ごしました。小学校卒業後、ハイラルに住んでいた高塚シゲ子という日本人女性に、さらに日本語や様々な学問、そして礼儀作法を学びます。シゲ子は、自分の家を解放し、私塾として、モンゴルの少女たちを教育していました。「この先生のしつけと教育のおかげで私は今も人間らしく振舞い、この年まで大過なく生きてきた」(ツェベクマ)シゲ子先生の教育方針は次のようなものでした。「私はあなたたちにモンゴル人としての誇りを持ってほしいのです。それだけが私の教育方針です」「あなたたちは蒙古のために自分の生涯を捧げるのです。蒙古がよくなるために、日本のいいところを取り入れなさい。日本に学ぶといっても、日本人になるというのではないのです。」ツェベクマは先生のことを回想しながら司馬に語りました。「そんな話、そのころ、蒙古人からも聞いたことはなかったんです。私には、高塚シゲ子先生の考えは新鮮でした。今でも新鮮です。」地理学者飯塚浩二は、この地を訪れたときにこう書き残しています。「女性の教育者、高塚女史の学校を訪れる。この部族的に極めて複雑な南屯に民族協和のための塾を経営しておられる。将校の未亡人だそうで、女子大出身という経歴と、持って生まれた積極的な性格から、この教化事業に打ち込んでおられる」このシゲ子さんがどのような方だったのか、今となってはほとんどわかりません。おそらく、満洲に、真の民族が融和する国を建設することをめざしていた軍人とその奥さんだったのでしょうし、もしかしたら何らかの機関に属していた方だったのかもしれません。とにかくシゲ子は、様々な部族や出身地の違いなどで対立しがちな、モンゴル人の間での、民族としての連帯を教えていたのです。昭和20年春、この私塾は正式に女学校として認められました。しかし、その数か月後にソ連軍は満州に侵攻します。高塚シゲ子は、モンゴル人たちを家に送り届けたのちに、捕まったときのために青酸カリを忍ばせて他の日本人教師と共に逃れますが、山中で、何者かに撃たれて亡くなりました。1947年、満州の王爺廟にて、モンゴルの代表団が集まって今後のモンゴルの行方を話し合う会議(クリルタイ)が行われました。この時ツェベクマも代表の一人として参加。将来の夫、ブルンサインと出会います。ブルンサインは東京高等師範学校留学し、その後満州に戻ってきたエリートでした。参加者は、皆、熱烈に独立を求めました。「世界情勢なんか、あまり考えなかったんです。大きな国であるソ連や中国の立場も考えませんでした。皆純粋論ばかり唱えていました。」(ツェベクマ)しかし、1945年のヤルタ会談によって、南モンゴルは中国に、現在のモンゴル人っ民共和国はソ連の影響下に置くことがモンゴル人不在のまま、英米ソ三国により決定されていました。また、ソ連で教育を受けてきた共産主義者のモンゴル人たちも多く、彼らの指導者、ウランフーは、ソ連や中国共産党の力をバックに、その組織力や指導力を発揮し、ソ連型の民族連邦制を南モンゴルでも作ればいいという方向に議論を導き、南モンゴルは結局、中国の「内モンゴル自治区」に編入されてしまいます。ツェベクマ氏はブルンサインと結婚、小学校の先生となり、ブルンサインは内モンゴル大学教授としてモンゴルの民族文化を研究しました。しかし、ブルンサインが、中国共産党のモンゴル文化弾圧を批判、かつ、夫婦とも日本語がしゃべれたことから、中国共産党から危険人物とみなされてしまいます。ブルンサインが、モンゴル人民共和国の学者を大学に招いて講演をさせたことも、民族の独立をあおる行為と危険視されました。周囲の圧力は次第に高まってきました。1959年、ツェベクマは、娘のイミナを連れて、ソ連領チタ(ツェベクマはもともとシベリア由来のブリヤートモンゴル人で、その地に親戚がいた)に、親族訪問を理由に向かいました。「イミナの命だけでも守ろうと思った」(ツェベクマ)その後紆余曲折を経てモンゴル人民共和国に受け入れられ、ウランバートルのホテルで働くことになりました。しかし、夫のブルンサインの出国は許可されず、ブルンサインは文化大革命時についに逮捕されます。文化大革命当時の南モンゴルでは、モンゴル人人口は約150万人、そのうち、最も少ない数字をとっても約35万人が逮捕され、2万8千人が処刑されました。これは中国共産党ですら認めている数字で、獄中でのひどい拷問で、釈放されたのちにすぐ亡くなった人や、障碍者となった人は数十万に及ぶという説もあります。特に女性へのレイプや拷問はむごいものがありました。ツェベクマと娘イミナも、もし亡命していなければ、そのような運命をたどったかもしれません。 中国が文化大革命の過ちを認めた改革解放の時代、1984年に、ブルンサインが生きている、ただし再婚していることがわかりました。ツェベクマは複雑な心境だったでしょうが「私がブルンサインの奥さんでなくなったとしても、あなたが娘であることは変わりがないのです、あなたが、娘として招待しなさい」と、娘イミナの名義で、ブルンサインと新しい妻を、85年ウランバートルに招きました。 しかし、到着した夫はすでに、人手を借りなければ歩けないほどに衰弱していました。直ちに入院させましたが、拷問で背骨に致命的な損傷があること、心臓も衰弱していることがわかりました。新しい妻はさしたる同情も見せず中国に戻り、夫はその後ツェベクマに看取られて亡くなりました。「悪く生きるよりもよく死ね、という諺がモンゴルにあります。夫の生涯を振り返って、その諺通りだったと思います。」(ツェベクマ)ツェベクマは2004年に亡くなりました。司馬遼太郎の筆によって、この数奇な、そして感動的な人生を送ったモンゴル人女性と、そして彼女らに深い影響を与えた日本人の女性教師のことは、日本とモンゴルの歴史の中に書き残され、今後とも忘れられることはないでしょう。